コロコロコミックを毎月買ってもらっていた。必ず丸読みをする。コンビニで売っているようなドラえもんの単行本も買ってもらっていた。茨城に住んでいた時の話で、親が離婚してしまってから8年くらい経つので、どんな単行本だったのかは思い出すことが出来ない。少なくとも、全話を網羅するような本ではなかったはずだ。
小学二年生の時にことわざに興味が沸いた。当時私の手元にあった娯楽は漫画とDSのニュースーパーマリオブラザーズと、遊戯王と、畑に生えている細い竹であった。
実家は農家だった。この細い竹をうまく鎌で刈り取って、振り回したりタコ糸を両端に括りつけて弓のようにしたり、さきいかを括りつけて、ザリガニを釣って遊んだり、一日どころか十日でも百日でも私の興味は尽きなかった。学校では、退屈な授業の合間にことわざを読んで凌いだ。
母は私に、ドラえもんの四字熟語とことわざの辞典を買ってくれた。四字熟語の本は結局あまり読まなかったが、漫画を必ず丸読みする私は、ことわざの辞典を丸読みした。調べてみると、小学館から出ていたことわざ辞典には、ことわざはたったの200しかないようだ。私は繰り返しそれを読んだ。そのうちDSや竹を振り回すよりも、ことわざの辞典を読む方を優先するようになっていた。
この興味の立役者は私の母親と、教師であった。ことわざを交互に言い合って、言えなくなった方が負けという勝負を連日挑んだ。母親はすぐに私に勝てなくなり、もっぱら先生とことわざバトルを繰り返すことになった。最後は先生にも勝てるようになり、次第に飽いてきた教師は私とことわざバトルを避けるようになってしまった。
ことわざバトルの相手を失った私は次第に興味が薄れ、竹藪から手ごろな竹を取ってきて振り回す日々に戻った。先生に勝つことは、私にとってゴールだったのだ。そしていつの間にか、相手が居ないことで、ことわざを勉強する意義を失ってしまった。私にとってことわざとはその程度の物でしかなかったのだろうか。
あれから16年経つ。私はフリーターとして夜勤専属のホテルのフロントに立っている。勉強をしなかった私は工業高校を卒業してすぐにガソリンスタンドに就職した。どんな仕事でも良かった。コロナ前の求人はあふれかえるほどあった。私とは関係のなさそうな仕事で、工場に偏見を持っていたから選んだに過ぎない。
仕事を辞めて、住んでいた栃木県に戻って来ると、ちらほらと結婚の報せや大卒組の就職の報せが届くようになった。数年は劣等感を抱かずにはいられなかった。私の肩書は高卒フリーターである。最近まではキッチンカーをやっていて、すぐに辞めてしまった。何者かになりたかったのだろう。キッチンカーでさえ、私からは遠い存在に感じる。
高校生までの私は、働くというのがとんでもなく恐ろしい行為だと思っていた。今までの価値観は大きく変わってしまって、私が私でなくなってしまうのを本気で怖れていた。自分の中に標語のようなものを持っていて、当時は「働くという事は、死ぬという事」と思っていた。人生の中に、転換期がいくつもあって、生きることは無意味だと確信した時や、自殺未遂をして入院した時、標語は新しくなった。
おこづかいでエスタロンモカを大量に買って服毒自殺を図った。パッケージを見ると思い出す。カフェインでは中々死ねない。致死量を飲み込んだ後、トイレに吐いてしまった。そこで、生きるより死ぬ方が難しいという事に気が付いた。2014年12月31日、丁度10年前であった。
今までの私は死んだことにして、今後は生きるべくして生きると決めた。二度目の人生。虚無主義から、厭世主義になった。故事や教訓、皮肉が好きだったので、Twitterを毎日見ることで暇を潰すことが出来た。皮肉というのは達観しているようで心地が良い。虚栄心。パスカルのパンセに似たようなことが書いてあった。
高校を卒業して就職するときに、はてなブログに一度、就職して自分の価値観が変わってしまう事への恐怖を書いた。その時の文章を読むと、私はその面影を残しているか分からないくらいに変化してしまった事がわかる。そして、私が抱いていた劣等感なんてものは嘘であった。私は何者にもなりたくなかったのだった。こうして就職から逃れ、自分自身と本当に向き合う時間を得て、先刻まで何を考えていたかと言えば健康についてである。「人生で最も重要なことは、健康である。健康というのは当たり前のように享受するべきではなく、自己の健康の為の選択をした上で享受するべきだ。明日というのはやってくるものではなく、明日を創るべきなのだ」と意気込んでいた。いかにも元自殺志願者らしいべき論である。二度目の人生は高校生で終わって、私は社会人となった。
論語や儒教に嫌悪感を抱くようになった。温故知新という言葉は、自己の思想を賛美する為にあるのではないかとすら思う。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというように、難癖をつけずにはいられない。また、仏教は虚無や厭世の気があるので以前から好きであった。だが神も仏も信じないので残念ながら手放しでは信仰できない。
私は思想家になりたいのだろうか。自分の浅い思い込みを一蹴してくれる存在を夢見ている気がする。思想バトルで大敗したい。あくまで自己の利益になるかどうかという観点において勝敗を決めたい。これはきっと無理がある。お悩み相談ではとても答えを出すことは出来ない。自分自身で更新し続けるしかない。そういう意味で、私は大した人間にはならないだろう。精々閑職に就いて、利己的な思索に耽っている程度が関の山である。
なりたくてなったと言う話だった。全く関係のない無駄話ばかりしてしまった。ここだけ書ければ良い。小学二年生でもことわざについて毎日勉強していれば、大人に勝てるのは当然のことだ。それを続ければ何者かになるのだろう。就職とは、何者かになるという事だった。
弁護士について考えているとふと思う。仕事とは、「私」に「仕事」を足すのではない。「私」の一部、または大部分が「仕事」になるという事だ。私が仕事になる。私が私でない何かになってしまう。
就職するのが怖かった私は、就職から逃げる方法を探していた。そして、それを達成した。今は都合の良い夜勤のバイトについて日銭を稼ぎつつ思い付きを書いている。今後も独りよがりの域を出ないと予想している。たまに思い付きで資格の勉強をしたり、新しい場所に身を投じようとするのは、退屈だからだろうか。「暇と退屈の倫理論」に影響を受けている気がする。
ようやく、自身の視点から分かる自分の性質について見えてきた気がする。