じゅぬの手帳

日記。私しかわからない。あとお題。

20240101

1/1 手帳を書きたくなるのは、決まって年始と購入直後である。買ったのが12月30日であるから、今は湧いて出てくるような言葉を少し丁寧な字でもってつらつらとつなげていると、数日後や1年後の自分を赤面させる。仕事に追われている今日このごろ、文章を書いたり青空文庫太宰治を読むことが唯一の娯楽であって、これは存外高尚(自分にとって「高尚」という言葉は特別である)な趣味ではないかと思う。ところで文学的というのは何を持ってして文学的というのだろう。例えば新聞や科学の教科書に書いてあること、書き方は文学的でないとするなら、風情のあることがらを少々めずらしい言い回しでもって表現したなら、あっこれは文学的だなと万人にとって思われることが出来そうな気さえする。つまりその、文と学、またはそれの前に純、なんてつけてみたりしても、一言で言い表せないのが腑に落ちない、簡単に説明してやろうという魂胆が、自分には恐ろしく卑劣で、かえって俗っぽい(「俗」という言葉も自分の中では特別である)ように思えるのである。

 演技とは、現代の感覚では駄洒落やこじつけのような気さえするが、当時、いつかは分からないが雷が神の仕業だと思われていたくらいの頃には大変ありがたい物だったのだろうか。門松の根本のしめ縄が藁のようで、これぞわらにもすがるということかなどと、ただの一度も現代の科学を疑わずうのみにしてきたくせに、文化や信仰をあざわらっている。一体どちらが卑しいか、化学よりも正しく見えるのも文学的のような気がするのだ。