じゅぬの手帳

日記。私しかわからない。あとお題。

20240122

 車の鍵が見つからなくて、タクシーで出勤したら2900円もかかったので、パチンコ屋の給料約7500円の内の4600円を6時間で割って、時給800円もないことになる。これも後にキッチンカーを営業する可能性があるので必要な経費であると割り切った。どうやら私以外のアルバイト二人も病欠と遅刻で来ず、チーフが一人でホールにいたのでタクシーで来てよかったと思った。偶然は得てして重なることがあるようだ。

 パチンコ屋は本当に楽な仕事だった。今までで一番楽だったし、これからもおそらく一番楽な仕事であり続けるだろう。この仕事を辞めて、昼間はキッチンカー一本にしようということで、二か月も前に辞めると言ったのにまだ開業できていない。自分の怠け癖は治せる気がしないが、人間は普遍的に怠ける生き物であると思っている。堕落論に因れば人間の性分を起こさせないために武士道があると言い、逆説的に武士道で禁じられていることが人間の性分であるという。そして、堕落し続けることは出来ないとも書かれていて、私も私の怠け癖についての嫌悪する感情を、幾度繰り返そうと愛でてきた。結果私が大した人間でなかったとしても、人生を謳歌するのに努力や研鑽だけが全てではないと知っているので、つい怠けて、本能に従って私自身を悦ばせることに従事してしまうのだ。

 日記とは、元は仕事中の現実逃避の手段の一つに過ぎなかった。それが今、22日も連続で、ほぼ一定の分量で継続できていることに感動している。私が私を認める一つの材料となり得る。人生で初めてこんなに継続して日記を書くことが出来ている。どうしてこんなに続いたのだろうか。一日を短く感じ始めたからだろうか。なんであれ、こうして文字を打つ喜びに純粋に浸っている自分が好きだ。私は自己愛者だ。高校生の時か、中学生の時か、私が私自身を嫌いで、自殺未遂をした時、生き延びた私は私だけが自分を本当に理解して、自分に寄り添って、自分を愛することが出来ると信奉することにした。その時から、まさか彼女が出来るとは思いもよらなかったが、ふと彼女を手放しに好きでいる時、それが本物である瞬間というのに限りがあると思った。出会いがあれば別れがあると、前の職場の人が教えてくれた。私は彼女の事が好きな時よりも、彼女が私の事を好きな時の方が幸福を感じる。それがもし、足手まといだった時、捨てることが出来ないように思う。本当に大切なのは自分だと知っていても、彼女を本当の意味で放っておくことは出来ないように思う。まるで子犬を放っておけないのと同じような気もする。

 憲法の義務に結婚と書いておいてくれれば、私は私の望む望まないに関わらず、結婚しているだろうと思う。昔は結婚が不文律で、それが今も残っている。考えたくもない話題だ。だが真剣過ぎるほど正直に、自分の感情に向き合っている。嘘偽りのない感情だ。

 彼女が迎えに来てくれると言ったので、一度は断ったが、ホテルの夕食スタッフに、開店前に伝えたいことがあったので、パチンコ屋が終わった後に歩いて1時間ほどかけてホテルに行った。いつもなら絶対に通らない道なので、あえて歩いてみようと思ったが、実際は見たい動画を歩きながら見ていただけで、歩いた道筋や光景を目にとめることはほとんどなかった。

 予定より30分以上早く彼女がついて、私の用事も終わったので、車の鍵の在処(唐揚げ屋)に向かい、飯を炊き、稲荷寿司と焼き鳥を食べ、3時間半ほど眠り、起床してホテルへと出勤した。

 後600文字位は書きたい時、すぐに思いつかないと、自分の考えの浅さに因るような気がして肩を落とすが、もし思考に集中したのなら日記を書く暇などないような気もするし、日記に書けるような単純なことは考えないだろうと思う。ならばこれはいったい何なのか。私はとめどなく思考をする上で何度も繰り返し思考した事柄を、単純化した文章で留めておく癖がある。短いフレーズのものあるし、直接的に関係がない単語でふと思い返すことがある程度で、重要な事柄ほど忘れてしまうことがある。

 思考が文章になってしまえば、私も作者としてではなく読者としてしか受け取ることが出来なくなる。言葉は、いくつかの言いかえが可能なニュアンスを含んでいて、一次元的ではなく枝分かれしているので、単純に取り出すことは出来ない。やがて忘れたり短くなっていったときに初めて文章としてアウトプットできるようになる。

 私が日記を公開しているのは、誰かに認められたいという自己顕示欲によるものだろう。でなければ、わざわざはてなブログに書いたりしないし、後悔しない手帳も手元にある。利便性においてはタイピングをした方が圧倒的に早いし、早い思考に追従できるが。

 私自身が何かどうしようもない、どうでもいい事柄に出会って、それについてどう感じ、どう考えたか。それを書いたり書かなかったり、何をしていようと愛おしく、怠惰な自分を変わらず嫌いでいる。こんなに赤裸々でいられることは幸福だ。もし私を嘲笑するものがいたとして、その者はきっと私より恥ずかしくない、単純なアイデンティティを持っていて、比べようもないほどにつまらない。