じゅぬの手帳

日記。私しかわからない。あとお題。

20240124

 割と充実している方の一日だったように思う。労働→睡眠→労働のような一日ではなかったし、本に携わる一日であった。

 ホテルの夜勤が終業してから社食を食べ、8時40分ごろに出発して、ふと帰宅しては行けないような焦燥に駆られて図書館に直行した。開館が9時の為、どのような人が開館直後に入るのかを観察することが出来た。つまるところ、コメダで働いていた時に来ていた人と全く同じ面々であった。主観で申し訳ない。

 割って話すのは忍びないが、この頃私は日記という物に対して懐疑的になっている。私の一日は夜に起床し、昼か夕方に就寝する。日記とは、朝に起きて夜に眠ることを前提としているような気がする。どうしても中間報告にならざるを得ないからだ。

 そうして年始から食い気味に、一日の始まりの時間に、モーニングノートのような日記を書き続けて、段々と、一日前や二日前の日記を書く方が写実的で面白いということを悟って、丁度一日前の事を書く習慣が身に付き始めている。日記というものは、本と同じぐらいに崇高なものの様に思っていた。私の周りで書いている人はいないし、自分は3日坊主で、22年間で継続できたことは殆どなかった。それが今こうして日記を書くことを日課とし、あまつさえ、パソコンが手元にないときは狼狽し気が気でいられなくなる。

 出来事に移ろう。9時から入った私は、折角朝一で入ったのだからと、ホテルで読売新聞を読んだというのに新聞のコーナーに向かった。朝日新聞を最近は読んでいなかったから(ガソリンスタンドで働いていた時にたまに読んだ)久しぶりに手に取って読んだ。私の座った向いの席に、常連のような風貌の老人が新聞を広げた。何の新聞かは見なかったが、地域の新聞だと予想している。他にも何人かずらずらと後ろから入ってきていたようで、雑誌コーナーに主に鎮座すると、各々が様々な雑誌を手に取っているように見えた。まじまじと見ていないから想像である。

 15分ほど、新聞を斜め読みした後、目当てでもあった文藝春秋を手に取って、今度は人のいないテーブルに移って読んだ。が、面白い文章を見つけることが出来ず、9時30分ごろに棚に戻し、詩や小説の書き方などを取り扱っている棚辺りを散策した。正岡子規の病牀六尺という本が面白くて、まだ30ページほどしか読んでないが、私はこの日記の虜になって、正岡子規の作品に触れてみたいと思っていた。詩や俳句を、それとして読むことに抵抗がある。詩を詩として読んでしまうと、私の中でどのように受け取るかが私の状態によってかなり変化してしまう。特にマイナスの思考の時に読んだものなどは、皮肉の部分ばかり捉えてしまう傾向にあると思い込んでいて、あまりそれに時間を割きたくない。小説は現象として捉えることが多いので、大抵は一定の気分に集束していくように思う。

 結局正岡子規の作品がありそうな棚には近づけず、小説を書きたい人の本という本を手に取って読んだ。夜勤明けで眠かったので、六角形のスツールが集合して長細くなっているところに仰向けに寝転びながら、30分ほど読んだところで、これは読了してみようということで借りて車に戻ることにした。帰り道でブックオフに寄った。これから借りた本を読もうというのに、私は安い古書を所有したいという欲求に駆られたまま、青空文庫で何度も読んだ山月記と、エッセイとして初めて読んだ堕落論を買った。又吉直樹の本を探したが、火花しかなかった。火花なら私の右ポケットに入っていていつか読もうと持ち歩いているものの、まだ三行しか読めていない。200ページくらいだったか、読了しようと思えば簡単なような気がするし、これを読むための準備に永遠の時間を要するかもしれない。

 10時半ごろ、家の駐車場に車を止めて、家に入ろうという気が全く起きないことに気づいた。帰宅すれば、また惰眠によって一日を終えてしまう。後部座席に寝袋があるので、寝袋に包まったままスマホを見たりして12時ごろに寝落ちした。14時に起き、一時間半かけて借りた本を読み終えた。感想としては、雑誌のような書き方だった。これを照らし合わせながら小説や文章を書くものではないなと思ったし、私の書いている文章は当然小説たり得ないということを改めて知ることが出来た。これからもし小説を書く機会があるとするならば、他者の小説の添削をしたいと思う。物語にとって必要か否かというのを、私は選択することが出来ない。日記も読み返さずに投稿しているし、添削をするのは私の最も苦手な行為の一つである。仕事が出来ない所以と共通している気がする。復習も大嫌いだし、一度見た映画を見るのも嫌いで、故に難儀な思いをしている。

 読み終えた後にまた携帯を見て時間をつぶし、図書館に今日借りた本を返却しに行った。読みたい本があればと一周したが、今読みたい本はないし、先刻買ってきたばかりだからと何も借りずに帰路についた。途中で腹が減ったので、何を食べるか、そこそこ思案した結果、スーパーで助六寿司を買って、運転しながら味わって食べた。ようやく家に入り、着ている服を洗濯し、入浴するか否かで迷っていたら洗濯が終わってしまった。とりあえずご飯を炊き、17時半ごろに彼女から帰宅の電話がかかってきた。早々に眠ろうと思いつつ、この時間に日記が書けたのならいよいよ日記という感じがしそうだなと思いつつ電気を消したら、やる気が無くなってしまった。携帯から思い付きでニュースを流した。関西で積雪によって通行止めが起きている。そういえば、電光掲示板にノーマルタイヤ走行禁止という文字を見たことがあったなと思った。18時15分ごろに眠りにつき、21時15分に目が覚めた。髪を整え、服を着て、歯を磨いて出勤する。結局日記を書く暇がなかったなと思ったが、日記を書く時間を準備しなかったのだから当然かと一人で納得した。通勤の時、同じ精神状態を作りたいので、同じ音楽を聴こうと思い、念仏を流していたことがある。後に般若心経を暗誦し、音楽を流さずとも念仏を唱えることで同じ精神状態を作ることが出来るようになった。これも私の日課である。

 意外に長文を書けなかった。今日は書くことがそこそこあるのでもっと分量を出せると思って期待したのだが、50分で2500文字。少しだけいつもより整うように文章を書いたが、結局は文章の書く速度はタイピングの速度に依存しているのかもしれない。

 平均して8分で原稿用紙1枚を書いているようだ。もう少し凝るか、またはこれ以上の長さの文章を書こうとするなら15分で1枚程度、一日50枚書くのに13時間もかかる計算になるのか。一度は一日でまとめて長文を書いてみたい。最高で20枚分を5時間ぐらい、休憩をはさんで書いたことがあるが、所詮日記とエッセイをないまぜにして、指の動きを優先して書いた文章であるから、参考になるかはわからない。

 小説を書きたい人の本で、募集要項に50枚から300枚とあるなら300枚を目指して書いた方がいいと言っていた。新人賞は多少の超過は認められるという。50枚と300枚ではかける内容の構成が違うからだと言っていた。私は読む小説にかなりの偏りがあって、手軽に、読み手に読み方を委ねるような近代小説や、以前読んでいた海外SFが非常にしっくりくるのでそればかり読んでしまう。書いたら応募してみた方が良いとも言っていた。人に読んでもらうという経験が重要だとも言っていて、私の書く文章は9割自分用で、書き手の自己満足という文章を添削の例題として挙げていた時はどきりとした。小説は読み手の為に書いていて、書いた文章が読み手によって誤って捉えられてしまったとき、変に余裕ぶってはいけない、理解されないということが書き手の落ち度であると明記していた。私もその理論に基づいて、読み手によってどのように捉えられるのかを真摯に受け止めながら文章を書いてみたい。正直今はそういう書き方をしたい気分ではない。この日記も自分の為に書いていて、それをそのまま公開しているから何を言われようと見当違いであるが、それでも私を傷つけるには十分すぎる。私を好きで私の文章を読んでくれるという客観的事実を段々と受け止めることが出来るようになってきた。

 本来は税務署からの電話に折り返したり、家業を進めるべきであるように思うが、私自身の娯楽への興味や熱意を削いでしまうくらいならば無視してもよいと思っている。何もしない、ただ携帯を見ているだけ、寝ているだけで一日を費やすのは本当にもったいない。そういった感情がいつまでも私を正しい方向へ導いてくれて、いつかそれが力となって何かを成すことができるのを願っている。

 文章を書くときに音楽を流していることが多い。これといった理由はないが、音楽を流していると、前へ前へ流れていく時間を体感できるような気がする。風呂に入る時、朝の準備をするときはよく音楽を流す。文章を書くときは破裂音や音声がない音楽でなければ書けない。セロニアス・モンクという人のソロのピアノを最近聴いていたが、いい曲と好きでない曲が混在していて、探すのも面倒になってきていたので、今日は年末に聴いていた除夜の鐘の動画を流しながら書いてみた。丁度先の段落に差し掛かった時に、段々と強くなっていった頭痛が許容できなくなったので、安っぽいジャズの動画に切り替えたら気分が晴れてきた。最初の方は単調な音で集中できていたが、一時間も聞いていると頭が痛くなるということを知った。結局何も聞かない方が良いのだろうか。何故、音楽を聴きながら書いているのかが分からない。ふと、イヤホンを外して書いてみる。特段違いを感じない。なんとなく思いついた理由だが、私は銭湯で眠る時アイマスクとイヤホンをする。イヤホンは何かしらの音楽を流しておいて、極力外の音を聞こえないようにする。家ではそんなことはしない。むしろイヤホンをしていては快眠できない。同様に、文章を書くということに没頭し、外界の音が思考の邪魔をしないようにしているのであって、何を流しているかはそこまで重要ではないのかもしれない。

 私がかつて溺愛していた神様のメモ帳では、Mr.Bigを流すと一番集中できると言っていた。私もそれに倣っていくつかの音楽を流してみたが、あまりにもしっくり来なかったので、原作が好きなだけに落胆した。この小説には大いに影響を受けた。私がパソコンを好きなのも、海外SFを読むきっかけになったのも、スチールラックを買ったのもすべてこの小説の影響である。まだ、この小説に引用されているたったひとつの冴えたやり方は読めていない。海外SFは読むのに気力を要する。

 私はさっさと、家業であるキッチンカーを軌道に乗せ、家を完璧に片づけて、新しい車を買って、積んでいる本を全て読了してしまえばいいのにと思う。それをしないのは、今日という一日に縛られて、長期的な目標の為に何日も潰そうという気が起きないからだと思う。偉人の中に、一日の選択を極力減らすという人がいる。私にとっての選択は夕食とか一日何をしようとか。なんにも建設的なことは考えずに一日が終わって、それでも一日一日を必死に生きているような浮遊感が私の周りに漂っている。どうしようもない人間だ。福沢諭吉は当時5年習っていたオランダ語公用語でないと知るやいなや、翌日には英語の勉強をしていたという。私はずるずると生きてきた22年という偏見の歴史を振りかざして、今日も昼間は買った本が読めたらいいな、寝たら寝たでぐっすり寝れたらいいなと楽観的に生きている。いつ死んだってかまわないと思っているし、譲れないものは何一つとしてない。情熱がないからなのだろうか。

 くだらないことなら、4000字くらいは書けるような能力が身についたようだ。近いうちに20000文字、原稿用紙50枚、一枚13分で12時間くらいかけて書いてみたいと思う。