じゅぬの手帳

日記。私しかわからない。あとお題。

20240119

 まず書いておきたいことは、PCのブラウザ拡張機能でASMRをブロックしたことだ。私は私の中に自分を飼っている。この感覚は一過性で、日ごとに変わるということを経験で知っている。日記も、書けるときと書けない時があるということを知った。日ごとに思考が変わるというのは薄々気づいてはいたが、日記を書いていく中で確信に近くなっていった。ASMRについてだが、生涯のうちのどれぐらいの時間を費やしたかわからない。ゲームもそうだが、私の手元にあっても自慢できないもの(必ずしも他人である必要はないが)は無い方が良い。見栄っ張りだが、本という存在が好きで、本を読むということがかっこよくて、本を読んでいる人も格好が良い。すなわち、本に携わっているということは優れていて、それが私の一部であって欲しいと願っているのだ。その種類が見栄だろうが自己満足だろうが何だって良い。それは、ASMRでない方が良い。パチンコでない方が良い。ゲームでない方が良い。ただそれだけの事である。

 それと、これはやはり日記として相応しくないが、手元に魅力的なものがあれば、どうしても手を伸ばしてしまうものであると思っている。ゲームがあればゲームをする。パチンコがあればパチンコをする。キッチンを掃除すると料理をする。ASMRも手元にイヤホンがあって、視界にASMRのコンテンツがあれば視聴するのは当然の摂理である。そういうとき、私はなにか物理的な方法でそれを遠ざける努力をする。これは自分の奥深くに刻まれた性のようなもので、ゲームを没収されたり、何か熱中していたものを中断されたりした経験によるものだと思っている。前者の可能性はそこまで高くないので、ご飯の報せとか、登校の時間とか、そういった生活上必要不可欠なもので既に決定していることでもストレスとなり、私の性格の、それも深層部分に刻み込んでいるのだと思う。全容を把握できないが、今までこれに散々助けられてきており、些細な依存性のある事柄にもよく発動する。ゲームをスマホに入れて、少し熱中して来た時に不意に削除する、動画の視聴を不意に辞める、タバコもこの現象に頼って辞めることが出来た。ASMRは長かった、本当はもっと早くやめるべきだったような気もするし、自分の中の純粋な欲求がASMRというコンテンツを支持していたようにも思う。とにかく、これでPCからASMRが目に入ることが無くなった。手元にないだけで見なくなるのだから、こういう部分は単純だと思う。スマホも、手元にあれば見てしまうが、辞めるべきかどうかで迷っている。私が検索したいと思ったことを即座に検索できないと、いつまでたっても検索しなおさない。彼女とご飯を食べに行ったときに、携帯を弄っているのを窘められて、見せつけるように手帳にメモしたが、未だに検索していない。検索しようという気すら起きない。何が書かれていたかも思い出せない。それは、手元から携帯を離してしまったからに他ならない。

 人間は元来高尚な生き物ではない。一時期、私は高尚という言葉に憑りつかれたように生きていた。神霊をこの目で見ようと墓や神社や心霊スポットに夜一人で赴いた。検証の後、どうやら世の中に蔓延っているような迷信は存在しないらしいという結論に至った。昨日知ったことだが、福沢諭吉も神社の御神体の石を別のものに入れ替えて、バチが当たるかどうか確かめたらしい。非常に共感できると思った。というより私個人からすれば当然の疑問であった。

 中学の頃はニヒリスト(虚無主義者)であると自負していた。最近はペシミスト(厭世主義者)であると考えていたが、今はまた虚無主義に戻っている気がする。私からASMRを取ってしまったら何も残らないような気がした。ただでも、今こうして日記を書いたり、少しだけ文章を書くことで元気が出てきたように感じる。はい元気ですと、日本人は幼少期に何千回と言っただろうが、あの身体的な健全を点呼する表現とは違った、精神的な活力を虚無から微量ながら生じていく感覚を元気と表現する新鮮さを享受している。ちょっと意味の分からないことを書いた気がするが、今一度読み直してみたら書いた直後の私にはニュアンスが理解できるようだ。

 やはりエッセイだなと思う。私の書いているこの日記は、日々の出来事を記録するためではなく、何を考えたかを書く為の雑記帳だ。今日の文章は特に読み返すときを考えたくない。痛いし、面白くなさそうだ。それでも、私は私の虚栄心も含めて文章に残したい。笑われたり批評されたり、理解もできない人に称賛されたりしたい。

 山に一人籠ることで世俗との関係を断ち切れるとは考えない。その山は数千年の人類の歴史の中で誰かに守られ、国に守られ、管理されてきたに違いないからだ。多かれ少なかれ、他者と関係を持つのならば、礼儀というものがある。それが親密な人間に対してこそ同様であるべきだと思っている。