じゅぬの手帳

日記。私しかわからない。あとお題。

20240109

1/9 手帳を通して、過去の自分と向き合うことが少しずつ出来るようになった。高校生の頃に書いたブログを読んだ。社会人になる事で思考が変化してしまうことを怖れていた。実際に私の考え方や生き方は大きく変わったし、高校生の頃の自分は思考をしてから発言していると言っていたが、今となっては理解の及ばない所である。

 22才も終わろうという私は、今までの自分を総称して自分として生きていこうとする思想が芽生え始めているようだ。これはとてつもなく恐ろしいことで、自分の理解の及ばない領域を無視して、それすらも気付かずに、やっている事は最早全く新しい自分になるのと大差ないのだ。まるで踏襲するかのように、それでいて過去の一瞬の自分達を、忘却の彼方へ追いやってしまう。その罪の深さを認識できなくなっている自分がいる。私の持つ一切の繊細さは、もう既に取り返しのつかない程に失われ、私を私と思っているのは他人だけとなってしまった。

 私は自殺しないという縛りを自らに課している。これは自殺未遂をした時、もう一度生きようとした時に課した物で、寿命以外では死ねないことになっている。生きている人は皆が狂気の沙汰で、各々が自己を正常だと思っているだけで相容れない違いを感じてしまう。少しずつ冷めてきた。1日を本気で生きた時の自分の言葉が、別の自分を鮮明に思い出させる。私には目標が足りないようだ。体は正常に老いていくが、心はいつまで経っても少年でありたいと願っているのだろうか。私にも本心は分からない。

 手帳もまた狂気のような気がしている。一体誰に向けて書いているのだろう。いつかまた、思考が行動を凌駕し、かつての自分を内包することができたのなら、手帳の一読者としても作者としても本望であろうが、そうでなければただ、他者の営みを覗き見る1人の他人と大差ないように思う。そう言った盗み見の趣味が誰しもあって、今は正岡子規の「病牀六尺」という本を読んでいる。これは正岡子規が病気で亡くなる2日前までの日記で、さわりを読んだだけで面白かったので青空文庫で探したらあった。夏目漱石と同年に生まれたようで、初版が1900年と百二十年も前の本としては非常に読み易いと思う。正岡子規が何をした人なのか、どんな作品を他に出したのかは全く知らないが、近代文学だけでもこんなに面白いので、なかなか流行している本に手を出せないでいる。