じゅぬの手帳

日記。私しかわからない。あとお題。

20240130

 最近の傾向から、家に直帰するのは愚策だと考えた。惰眠を貪ってしまうからだ。公園に行こうと思い立ち、一応念のために、寝間着の灰色のパーカーとズボンを取りに帰宅して、制服のポケットに手を入れると、コーヒーマシンの鍵が出てきた。仕方なく、もう一度職場に戻って鍵を返し、公園に向かった。

 公園の丘に、昨日買ったラグマットとバスケットと、ポータブル電源とパソコンと寝袋を持って行った。試しにラグを取り出してみると、ホテルの制服が毛まみれになった。これでは駄目だと、車の後部に乗りこみ着替えた。朝方にも関わらず、近所の人のウォーキングコースになっているらしく、往来は多い。人目が気になったが、私が中途半端に奇態だからだ。平日の昼間なのに、灰色上下のスウェットに、バッテリーとバスケットを持ったヤバい奴だと思われれば、おのずと目を逸らすだろうと思い、変人になりきることにした。

 何度か丘の上でラグの位置を変えたり、パソコンの配置を変えたりしながら、寝袋はチャックを開いて掛布団にして、パソコンが反射で見えなかったので布団の中に入れた。近所の幼稚園の放送がうるさいが、イヤホンをしているのであまり気にならない。アイマスクをつけて10時ごろに就寝し、15時ごろに起床した。素晴らしい日中の過ごし方だと思う。毎日はやりたくないが。

 15時に起床してから、30分ほど昨日の日記の続きを書いた。日記は佳境に差し掛かっていたが、間を挟んだためにやや落ち着いた文章になっているかもしれない。物語を日をまたいで書くというのはこんな感覚なのだろうか。

 15時半から薬屋のひとりごとを一話だけ見た。内容は女性向けのような気がする。特に、パッとしない女性主人公が、周囲の羨望の的の男性に認められるというシチュエーションは、女性しか理解できないのではないかと思ってしまう。あくまで私の私見であって、もちろん視聴者の中には男性もいるのだろうから、この偏見は誤りだ。ただ、主人公に感情移入して視聴することがしばしばあるので、このような未体験で想像し難い状況を、素直に楽しめないだけで、単に私の想像力の不足によるのではないか。それは逆の立場においても成り立つのだと思う。

 16時に帰宅して、ご飯を食べた。彼女が帰宅した。忘れていたが、LINEを消すと伝えていたので、その話になった。理由を聞かれたが、答えなかった。他人と距離を取ろうと思っていて、それは彼女も例外ではなかったが、いつものように接してしまった。私は弱い。自分の理想を雄大に描き、人の過ちは嘲笑し自らの現状を嘆く、矮小な器で何も為せずに朽ちてゆく運命なのだろうか。私は私自身に期待している。何か人の成せないことを成せるような、そんな淡い期待を常に抱いていて、いつだって現状を嘆いている。

 彼女とカップラーメンを食べた。彼女はカップヌードルの激辛のものを、私はカップヌードルのチーズカレーを食べた。スープに米を入れたが、おかゆのようになってしまい不味かった。

 ルートインで、退勤前にアニメの話をしたら、相方も見ているというので盛り上がってしまった。私は自分の饒舌な口を止めなかった。止められなかったのかもしれないが、このまま話しておかないと後悔するような気がして、事細かに話してしまった。そこで、薬屋のひとりごとの話になったので、一話だけ見てみようという気になったのだ。2クールらしい。今日の時点で16話までAmazonプライムで見ることが出来る。続きを見るか迷う。時間と面白さを天秤にかけると時間が惜しいが、睡眠に費やすぐらいなら見た方がよっぽど良い。

 書くことは多かったような気がしたが、書いてみるとあっけないものだ。この前の日が多すぎたせいかもしれない。一日の出来事を面白く書くのは難しいが、それよりも面白い一日を過ごす方が難しいと気づかされた。一日を面白くするためには、努力をしなければならないようだ。日記を書かなければ気づかなかったことかもしれない。

 思考を深めたいのだが、思考をすると書き留めておきたい衝動に駆られる。書き留める速度は遅いので思考についていけない。結局この文章に出来る程度の嗜好に落ち着いてしまう。もっと高度で、複雑な思考を脳が求めている。昼間の仕事を辞めて睡眠時間が増えたからだろう。これでも、高校生や中学生の頃の自分には遠く及ばないと思うと、胸が苦しくなる。失ってしまうのは知能だけではない。自信や探求心などの精神的な部分や、心の余裕も時間とともに失ってしまった。

 三島由紀夫の動画をいくつか見た。人は自分の為に生きて、自分の為に死ねるほど強い生き物ではないと言っていた。その言葉の中でも、戦時中は死が常に隣にいた。武士道では死か楽な方を選ぶとき、必ず死ぬ方を選ぶ。現代は命をかけられる武勲がない。生きる為、生きる上での幸福しか追求できないという言葉を聞いて、私も、死ぬまでの数十年間と言う時間を、生きられるという確信の元に、どのように生きていいのかわからないという有様で、人間は、この時間を自分の為だけに使えるほど強い生き物ではないのだなと思った。三島由紀夫仮面の告白は、私には難解で読み切れなかったけれども、他の著書の金閣寺などを読んでみたいと思った。