じゅぬの手帳

日記。私しかわからない。あとお題。

これから書く日記について

日記を推敲したい

 私はノートの書き方にこだわりがないし、イラストも描けない。描いたことが全然ない。思えば今まで既定の書体を変えたことがないな。他者のブログを読んだとき、写真があるだけで目が痛くなる。ただただ文字に固執していた。

 日記を書く上で自分の文章を推敲した事はないが、今後は読み手を意識した文章を書きたい。推敲前を手帳として、推敲後を日記帳のように運用したいが、ブログは3つまでしか開設できない。数年前の思い出を消すのも忍びないので、手帳に推敲した文章を投稿してみたい。ついでに文字の大きさや見出しを変えようと思い、今も試行錯誤している。

試しに今書いた文章を推敲したら、380文字が280文字になった。今までの日記も同様に短くなると思うと、2000文字を目標にしてきたので心が痛い。だがしかし、ようやく、自分の文章と向き合う時が来たとも言える。2000文字に到らない日もあったし、文字数に固執すればするほど内容は薄い。

 私が危惧しているのは、書きながら推敲してしまうことだ。私の中の言語を公用語に変換するとき、失われてしまう情報を、私の中だけでも留めておきたい。原文を保存したい。だが、今、こうして推敲を念頭に書いていると、書きながら遡って推敲してしまう。以前書いていたブログは、たしか、このような書き方をしていた。

 文字数に限って言えば、私の生の文章の持つ情報が減ってしまうというよりは、もともとその程度の意味しかなかったのだと納得できる。文章は一次元ではないと思う。何度も読み返し、書き直す。そうして元と似て異なる文章となっていく過程は大切な資料だ。

 私は私の内面の問題を解決しようとするとき、解離して解決しようとする傾向がある。今一瞬言葉に出来た気がしたが、刹那の内に忘れてしまった。備忘。

 どちらを残そうか。推敲するべきか、しないべきか。推敲した文章を読むと、少し理知的に見えた。少し過去の自分の書いた文章に似ていた。LINEで文章を送る時、内容を考え直さないようになったのと共通点がある筈だ。

 とりあえずは、推敲をする方向で考えている。文字数を自慢できなくなるが、生の文章が私にとってはもう既にしっくりこなくなってきた。たったこれだけの文章を、書き方を変えて書いただけで、自分の嗜好が変化してしまうのが恐ろしい。