じゅぬの手帳

日記。私しかわからない。あとお題。

私の最近の文章を書きたい欲求について

 無性に文章が書きたくて、A4白紙に私見を書いていた。丁度一杯に書けたのだが、折角なので残して置きたい。

 

 文章と会話では、同じ言語でも全く趣が異なる。一説によると、一日に男性が喋る単語は約七千語、女性が喋る単語は二万語だという。私は七千も話していないだろう。だが、連日書いている二千字を目標にした日記よりは、喋った言葉の方が多いと思う。口をついて出てくる言葉について、普段は何も考えたり悩んだりすることなく発している。少年の頃の方が、他人に気を使ったり、悩んだりした記憶がある。

 社会に出て、接客をして、営業を経験して、言葉とは思っていたよりも半端な使い方をしても通じるのだと知った。むしろ多くの人間が私と同じように悩み、自分の言葉について不安を抱いているということが分かってきた。それから段々と気が大きくなって、今の厚顔無恥な性格が出来上がった。

 本当は、文章と会話の違いについて書こうと思っていたが、丁度私の自分が足りを書いてしまった。つまりは、文章とは会話に求められる刹那的なやり取りはない。どちらかといえば、自分が足りに近いものがある。連日、日記を書いて、手帳を書いて、彼女に手紙を書いて、それでも書き足りない言葉はメモ用紙に書いている。今は趣向を変えてA4の紙に書いている。絵師にはペンと紙ではなく温泉旅行をプレゼントした方がいいと聞いたことはあったが、その気持ちが実に良く分かった。白い紙に、文章を書くのが不安になった。最近は絵葉書を少し書いたが、何を描くか不安になったものだ。

 話が脱線して仕様が無い。とかく、私のような独りよがりで、自分語りが好きな人種は、文章、特にエッセイを書くのに向いているのではないだろうか。それでも七千の単語を書ける気はしないのだが、このまま思うがままに文章を書いていれば、いつの間にか喋る単語よりも書く言葉の方が多くなっていたりしないだろうか。

 もし、このまま文章の研鑽を積み、それが日常となったところで、会話の方は独りよがりのままではないか。私は男性として生まれ、男性として生きているからか、自ずと女性同士の会話の冗長さを退屈に思うことがある。会話には、話の内容以外の要素が多分に含まれている。そのうちの共感という要素は、二万語もの会話の量に大きくかかわっているようだ。決して会話を嫌っているとか、教官が出来ないとか言うつもりはないが、寒空の下で何時間にもわたって井戸端会議をするというのは、努力というよりは才能に近いのではないだろうか。

 私が以前勤めていた会社の上司が、話がとても面白く、居酒屋で

「自分と話してくれている以上、相手に面白いと思ってもらわないと失礼だと思っている」

と話していた。他者の固定観念は本当に面白い。その上司は、その信条の元、今日も顧客や部下を笑わせているに違いない。私にはそのような信条はないばかりか、なけなしのボキャブラリーの中からなんとか話題を見つけなければいけないと焦って、結局自分語りをして気づいたときには取り返しのつかない状況になっている。いっそのこと一言を発することもなく一日が終わってしまえばよいのだが、社会で生きていく以上、叶わないのが現状だ。

 ひょっとしたら、私が大切にしている現状や、考え方は何もかも発展途上で、今後の数年間、数十年間で全く違う考え方と出会い、私としての面影すら残っていないかもしれない。現に、就職して数日の頃に書いたブログに

「私が最も大切にしていた、人との接し方は跡形もなく消え去ってしまった」

というようなことを書いていた。今となっては、それがどのような心持だったのかは分からない。私自身が崩壊してしまうような不安に駆られたことを覚えている。大したことはなかったような気がする。

 二月一日

 

 限りのある紙に書くとき、内容を端折ってしまう気がする。加筆をしたい部分も少しあったが、喋るのと同じで、どうやら私は書いて満足してしまう性格のようだ。