じゅぬの手帳

日記。私しかわからない。あとお題。

20240229

 引継帳を作り終わり、指示をまとめてようやく作り始めた。理論的に説明できないが、コーヒーではない頭痛が起こるほど疲れた。一日目ということで適当に教えた部分もあるが、全容を説明したつもりではある。

 教えたと言えるかどうか、不安な所である。初めて私が教わった時、どのように教わり、何が足りなかったかなど、考える余地がなかった。

「メモってどうやって取ってるんですか?」

などとこちらが聞いて、メモの取りずらさについて盛り上がった。言葉を大量に発した。仕事が終わって休憩に入り、日記の続きを書くぞという準備をしてからニ三百文字しか書けず、時間が逆にもったいないように思われて睡眠道具を取り出し、眠りに付こうと思ったが、鼻が詰まっているのか呼吸がしずらく、熟睡が出来ない。

 思えば家を出る直前にコーヒーを一気に飲んだのであった。頭痛は当然起こったが、それよりも、呼吸がしずらいのはいつも声を出さないのに話したからかと自分の睡眠の妨げに対する研究が始まって、ひとは呼吸について考え始めると自然に呼吸が出来なくなるので悪い方に向かって行くのが解った。言葉は一次元的であると思っていたが、読み返すことによって二乗的に、二次元として機能するように思っている。いつもは脳がペラペラと言葉を打っていくのに、今は判然としない脳で抽象的な事ばかり書いていて、返って心地が良い。
 熱心な睡眠研究の果てに睡眠をして、毎度の休憩終わりにトイレに行くときに、やっと睡眠が出来たと言うことを喜び微睡みを愛した。立ち上がる時に壁を確認してから立ち眩みをしてもたれかかってしまった。休憩から戻ると私が教えていた人がまだ、鍵をハウスキーパーの袋の中に入れていた。相方の方はまだ寝ていた。日記を書いた後、ついに手帳に書けるぞとワクワクしていた。言葉の能力は平時の様に戻っていた。はがきを書く。閏年について書いた。本当はうるう秒について書きたかったのだが、ユリウス・カエサルの事を書いていたらそれだけで埋まってしまった。

 筆ペンで「敬略」と書いた。調べたらそんな言葉は無かったので「前略」に書き換えた。文末に「草々」と書く。中身はうるう秒の事ではなかった。

 葉書を書いていたら、6時30分になっていた。

「どちらか休憩どうぞ」

といって促した。私はその後、前日のキッチンカーの申請をした話などをして、内心ではホテルと文筆業とキッチンカーの三足のわらじをはけるかもしれないとウキウキしていた。もしかしたらという感覚である。もはやキッチンカーにおいては売れなければよいと言う風に考えていた。しかし、私の思考の片隅に(私が本気で稼いだらどれくらいの金額を稼げるのだろうか)という疑問があり、それと反する甘えた目論見であると自らを批判した。

 7時50分くらいには、大体一日の事を考えていて、今日は先日大業を成し遂げたので休日だと言い聞かせ、温泉にでも行こうと試みることにした。朝食のハヤシライスをたらふく平らげた後、温泉に行きたいが熟睡できないので、真に休息を得るには家が一番だと言う気が起こっていた。

 服を洗濯する必要があると言うことで帰宅をした。今になって思えば、温泉から帰ってきて洗濯することもできたが、より重大なことが私を家へ向かわせた。リマインダーに「ゴミを捨てろ」と入れてあったからであった。喜々として家路を辿り、真っ先にごみを捨てた後、今日はぐっすり寝るぞと意気込んでから、一時間も携帯を弄った。私の想像力の不足によるものだと反省しながら、晴れ晴れとした気分でGoogleアシスタントに13時45分にアラームを設定させて、Googleアシスタントにいつもありがとうといったら、またよろしくどうぞと言われた。15時丁度に起床をした。

 もしかしたらアシスタントがちゃんとアラームをかけられなかったのではないかと確認したが、履歴に残っていた。朦朧としながら、残りの出勤の時間までを計算していた。5時間と誤った計算をしたおかげで起床をして、服を脱いで寝るおかげで、風呂に入らないまま服を着るのが変に心地が悪く、風呂に直行した。洗濯物を早く終わるモードで回してからシャワーを浴びて、15分ほどで出るとまだ洗濯機が回っている。顔をオールインワンの保湿のもので塗りたくり、髪の毛を寝室で乾かした。寝室と洗面台にドライヤーがあるので、その時の気分で切り替えることが出来る。洗面台は寒いので、急いでいる時で髪をセットしなければならない時以外は寝室で髪を乾かす。

 布団に入って眠らないように、この時点で制服に着替えてしまう。モーニングルーティンの動画を見ながら、へんに影響されて、意味もなく豆乳300gを計ってみたり、ナッツ50gを計ってみたりした。二つ目のモーニングルーティンの動画を見ていたら「たったこれだけであなたも」という感じの事を言っていたので、これは一か月たった1万円という謳い文句と同じ詐欺師の言葉だなと思った。

 24時間という時間の内の2時間がルーティンとして確立すれば、一年で一か月はそれをしているということになる。ついでに睡眠について計算して驚いていた。6時間寝ていたら3か月は寝ているということになるのか。人間の集中力は、一日に限られた時間しか保てないので、比較の仕方を変える必要はあるが、熱意を持って取り組む時間と、そうでない時間を絶対的に区別する必要があると感じた。

 17時まで残り10分以上あったので、10分以内の散歩をしようと試みた。制服のまま、携帯も置いて飛び出したので、腕時計とポケットのメモ帳を暇つぶしの道具にした。メモ帳には汚い文字で、散歩は意味がないのではないかと書いた。実際に日記に書くほどの事は無いように思われたが、事実と感情を思い出しながら、日記を書く時よりもはるかに早く事象を把握し、言葉にして消費していることに気が付いた。家に帰ってきてから、喋るのが一番思考を直接アウトプットする方法ではないかと試みたが失敗に終わった。

 パソコンを立ち上げながら、スマホ

テザリングをして」

とか

「タブを全部閉じて」

とか指示を出したが、タブではブラウザに対してなのでうまく動かず

「アプリを全部閉じて」

と指示したら閉じる方法を検索して表示した。

「お前の仕事だろ」

とつい言ってしまった。

 米が少ないので、後で炊かなければと思い、ラップで残り飯を取っておいた。日記を書き始めると、彼女から電話がかかってきた。丁度、言葉が出てこなくなっていて不安だったのもあり、あまり良い返事が出来なかった。

 思い出してご飯を炊いた。日記を書いている時に日記を書く以外の事をすると、思考が中断されて思うように書けない時がある。集中と継続が物事を推し進めるうえで重要だ。しかし、モーニングルーティンの様に、思考と判断を切り離しておく必要があるという二律背反の例がある。特に日記においては自らの趣味の思考領域を大いに消費していて、それ以外については疎かになっていると言わざるを得ない。続きは職場で書きたい。17時59分。

 残り三時間もないというところで、最高の贅沢を考えた結果映画を視聴することにした。見たい映画は特にないが、その映画が面白くなさそうであればより面白いものを見たり、読みかけの檸檬を読もうと心に決めていた。プライムビデオで数分で探して見つけたのは、以前途中まで見たマスカレードナイトであった。

 二時間十数分と丁度良かったのもあり、すぐに視聴をする環境を整えた。これから彼女が帰ってくるということで、スピーカーで視聴した。彼女もこれを見たことがあり、一度見たことがある映画を再度見ることに抵抗が内容であった。本当かどうかは定かではない。

 ここに感想を書くかどうか思案した。印象くらいは書いておいても良いだろう。あとがきにあたる部分が非常に面白かった。もちろんストーリーも面白いのだが、東野圭吾と言う作家の作品だということを念頭に置いて、じっくり考えて見ていた。それにしては、いつものように登場人物の名前は殆どだれも覚えていないのだが、連続殺人事件、フロント、バスローブ、ハンディ、クレーマー、ウェディング、真犯人、エピローグというストーリー構成の合間にホテルの裏側で、刑事、髪、目つき、いいホテル、素晴らしい接客、捜査進展、元相棒、救出という裏方的な進行があった。これは、ミステリというのかと、ミステリーを読まないので彼女に尋ねると、そうだと言った。ミステリーと言うのを読まな過ぎて、コナンのような推理をするのがミステリーかと勝手に思い込んでいた。永遠のゼロはどうなのだろう。あれも真相を突き止めようという目的があった。

 ストーリーをなぞれば似たような小説を書けるような気がした。そもそも終始どうやったら文章に出来るかを考えていたが、あとがきに関しては私では絶対に書けない世界観が広がっていた。最後に恋愛的な結末を持ってくるのは私の好みでなかったが、世間的にも、私が好きな太宰治でさえもそうだったように受けが良いのだろう。

 映画と言うのは演出の際に、キャストを生かすようにストーリーを改変していると思っている。もしかしたら結末や、あとがきの部分も受けがいいように改変されているのではないか。東野圭吾の小説の中で、唯一読んだことのある真夏の方程式は恋愛で終わらなかったと思う。あのあとがきを研究するために東野圭吾を読み漁りたいと思った。

 芥川賞を受賞する純文学には結末がないというのを聞いたことがある。小説に結末が重要なのか。どうやって書いているか、気持ちのいい熟語と言い回しと、もうラップを例に出した方がいいのではないかというくらい説明しにくいが、韻は当然関係していると思う。詩ほど抽象的ではなくて、俳句を引き延ばしたような、というのもまた違うが、言葉にストーリーを持たせたようなものだと思う。

 的を得ていない、稚拙な説明であることは私自身もわかっているが、私の持ちうる言葉ではここまでしか表現できない。これは何度も試みないと表現できないと思っているので恥を承知で書いている。

 映画を見ている途中に、彼女が料理を作り終わって夕食を食べた。昨日と同じ献立であったが、昨日と違って冷凍のもやしではなかったので、大変に美味かった。もやしのシャキシャキ具合が生なのではないかという不安さえ抱かせたが、昨日より厚い豚肉にまかれていてしっかりと火が通っているようだったので(蓋もシンクに置いてあった)火が通っているのは間違いがないと思う。

 彼女は村上春樹はつまらないという話をした。もっと根拠のありそうな話であった。私も読み終えた作品は一つしかないし、村上春樹の本ではない。ティファニーで朝食をカポーティが作者で翻訳が村上春樹であったことを覚えている。村上春樹にしか使えない言葉があるとすれば、入門編としては良かったのではないか。いずれにしても一度も読んだことがない作品にとやかく言えないし、きっと東野圭吾が好きな人とは違う層なんだろうと思う。

 話は変わるが、今書いている時と、家で書いている時に、村上春樹の「ノルウェイの森」という小説の中のプレイリストを聴いている。私も聴いたことがある曲が何曲か入っていて良い。ウイスキーカティサーク推しらしいが、何度も試したりバーのマスターと話したりして、やはり今のカティサークは相当まずいということが、私の味覚とともに間違っていないようだった。

 映画を観た後に空白の時間があるというのは幸福な事である。余韻という言葉を使わないようにしていたので、彼女が余韻と言った時に、そんな上品なものではないと言った。そうすると幼稚な言葉を並べ始めたので、私は一つ、整理という言葉を提言した。腑に落ちないようだった。私もだった。

 昨日のように、9時から9時15分まで座禅をした。入浴を済ませていると、15分だけ空白が生まれ、仮眠をすることであまりよくない影響を及ぼしそうな気がしているので、座禅を試みている。仏を目標にしていないので、瞑想の方が正しいのかもしれないが、足は座禅を組まないとリラックスをしてしまうので中学時代から不定期でしている。

 また、仕事を教える役目であったので気が進まなかったが、教えることはまとめて昨日教えたので、かなり楽が出来た。