じゅぬの手帳

日記。私しかわからない。あとお題。

今週のお題「習慣にしたいこと・していること」

今週のお題「習慣にしたいこと・していること」

 

 今年で23歳になる。1年を23回繰り返した人生ではなかった。生涯を大きく分けると三つになる。高校生までと、高校時代と、社会人になってからだ。

 はっきりいって、習慣の持つエネルギーを侮っていた。それも22年も侮っていた。習慣は、私の嫌いな行為の一つであった。一日は24時間しかない。しかし、仕事をしていない14時間の間は、時よ止まれ!と念じることで永く一日を過ごすことが出来たような気がしていた。人生は1日の繰り返しであると気が付いたのは、2月20日あたり、毎日日記を書いて50日が経過した後の事であった。

 日記を書き始めたのは、当時私が昼と夜のバイトを掛け持ちしており、バイト先に17時間滞在し、家では3時間しか睡眠が出来ない生活をしていたころであった。休憩時間に2時間寝て、家で3時間寝ていたので、体はむしろやや健康であったのだから不思議である。しかし精神の方はとうに限界を迎えていた。

 責任のない仕事であったのは幸いであった。どれくらい責任が無いかと言えば、お客様を見送りながら、手帳に日記が書けるくらいには楽な仕事であった。これは人生の大きな転機になると確信している。それが分かるのはこれから先になるだろうが、日記を書き始めて既に私の身辺に変化が起こっていた。

 手帳を5年以上、毎年買っていた。小さい物と大きい物を買い、予定は小さい方に書き、その他の事は大きい方の手帳に書いていた。いや、実際に書いたのは10日分ほどで、殆どが空白の手帳である。しかし何故か、手帳を買って勿体ないだとか、書かなくて後悔をしたことは一度たりともなかった。私の高尚な趣味の一つとして、一文字も書かなくて良いので手帳を買うと心に決めていたからであった。それが去年までは悪癖であったのが、手帳を書き始めて10日で、小さな手帳の二か月分を日記で埋めた時、ついにこの日が来たと思った。

 手帳を書くと言う習慣は、なかなかに生まれるものではない。人によって促されるものでもないし、自分の内側からやってくる確信によって、これは習慣に出来るぞと誇れるようになるわけでもない。それは、書く場所が足りなくてどうしようと困ったときに、真に自分の中で習慣になったことを、安心したときである。

 以降はブログに日記を書き、あらましをウィークリーに書き、自由欄に特筆すべき所見を書いている。書かない日は無い。いつの間にか、初めのうちは書く事がなかったのだが、最近では書く事が膨大すぎて手が間に合わない。手帳に書いている時は、一時間、800文字前後を書いていた。それがパソコンで打つようになってから2000字になり、突然1時間に4000字打つようになった。手が追い付かない。書く事が多すぎて、時間が足りなくなってしまう次第であった。

 一日1時間は必ず日記を書いている。最近は一時間に抑えようと努力しているのだが、昨日の日記は喫茶店で一時間書いて、休憩時間に30分書いたので6000文字以上になった。それでも些細なことを書こうと思ったら書き足せるほどである。

 つまり、些細な事を零細に覚えているという訳である。最近は、前々日の日記を書いてみたいと思うようになった。どれだけ過去の記憶を辿ることが出来るか確かめたい。今までの私は、過去の事をすぐに忘れてしまう体質であった。先日何をしていたかを考えようとするだけで頭が拒否をするくらい、現実から遠ざかって生きていた。要因の一つに自分の働き方があったのは否めない。現在は夜のアルバイトのみに専念している為に、心身ともに健康である。

 日記を書くようになり、日記が書けないかもしれない時、ひどく焦り、どのような手段を用いて日記を書くか、そればかり考えるようになる。習慣とは恐ろしい一面を持っている。

 もっとも習慣について否定的な、物心ついた時から思っていたことの一つに、時間を失うということが挙げられる。一日必ず一時間は日記を書いているのだから、世間の人が一日24時間で生きているところを23時間で生きているような損をした気分になる。それが二時間、場合によってはそれ以上書いてしまう時、時間の浪費が常に念頭に置かれてしまう。仮に私があと48年生きたとしたら、世間の人が48年歳を取っているところを、46年しかとっていない、2年損をしたという気になってしまうのだ。

 そろそろ本題に戻ろうと思う。どうやら思うがままに書いていたら、習慣にしていることの説明になったので、日記を書いていることについての良い点について話す。

 日記を書く事によって、文章を書く能力が向上した。それは当然なのだが、特に変化したのは文章を書く為の心の障壁が減ったことである。

 文章を書いたら疲れる。当たり前のことだと思っていた。読書感想文に限らず、作文用紙に文章を書いたら手も疲れて、頭も疲れたような錯覚に陥る。つまりは疲れたと言う錯覚なのである。多い日では作文用紙20枚分の日記を書いたこともあるが、手帳に所見を書くのが楽しみで仕方が無かったし、むしろもっと書きたいと思っていた。現に現在、日記を書いて、手帳を二か所書いて、それでも飽き足らず、葉書にかしこまった文章を書いて彼女に渡している。文章を書くということに憑りつかれてしまっている。当然今のお題を書いているのも日記を書いた後である。

 最近は、文章を書きたいと言う衝動を生かして、フリーランスのライターの仕事に挑戦している。最近ようやく1200円という、中学生のおこづかいくらいの金額を稼ぐことが出来た。文章を書くという初歩的で絶対的な衝動を起こすには、日記は大変に役立ったと言える。初心者が受注できる案件は400文字や1000文字程度なので、本当に片手間の感覚である。しかしそこから文字数が増え、文章の構成を考え始めなければいけなくなってくると、日記を書いていると言う経験が役に立たなくなってくる。私が書いているはてなブログは、最早ブログと呼べるような代物ではないし、何かをまとめてブログに書くというのはまた違った想像力が必要になる。

 日記を書くデメリットとしては、時間が相応に失われると言うことだ。一時間でも30分でも、私にとっては安くない時間だ。一か月書く事が出来た時、なぜこんなに時間と気力を書けて、誰も読むことがない、自分すら読み返すことのない日記を書いているのだろうと連日悩んでいた。だが悩んでいる間にも、書かなければならないという習慣が、圧力が、自分の行動を支配していた。これが良いことなのか悪いことなのか、最早わからなくなっている。正気を保つために日記を書いていたが、段々と狂気を帯びてきているのがわかった。

 習慣というものは容易にできなくて当然である。むしろ簡単に習慣ができてしまったのなら、あっという間に自分の人生を習慣に支配されてしまう。理性的な考え方から言えば、命を賭けてそれを全うしても、本当に後悔をしないと誓うことが出来るのなら、自ずと習慣に出来ると考えたい。しかし実際のところ、必要に駆られずに、ただ毎日書いていただけなのに、強迫観念が突き動かして、最早辞めることは許されないという状態に陥ることすらある。習慣にするコツ、真理というものをつかむことが出来た。

 そんな私が習慣にしたいことは、勉強をすることである。社会人になってから、ノートを取ったり、意味のない計算をすることが無くなった。これ自体は問題がないのだが、何かを会得したい時、海外に行きたいと言う目標が出来た時に、言葉が分からない、学習する手段がわからないという状態である。私は勉学を怠けて、高卒で適当に選んだガソリンスタンドにとりあえず3年勤めて、地元に帰ってきた社会の負け組に属している。山月記を読むと痛いほど心に沁みる。感情移入して比べられる程の才覚は当然持ち合わせていないのだが、何かを達成する瞬間の事を夢に見ている。

 日記を書くと言うことは漠然とした目標に過ぎない。それを上回るほど、勉強をしたいなんてことは漠然としている。専ら、勉強をした後の状態になりたい場合がほとんどである。大概の欲求はそうだ。しかし、習慣というものはそれほど難しくはないと知っている。行為が結果からかけ離れたものでないと知っている。自己の怠慢によって、ついに神格化されようとしている勉強が、私の最も習慣にしたいことである。

 これほどまでに陳腐な目標はないだろう。目標ではなく手段なのだ。本物の学徒は私を指差して笑うに違いない。なんかかっこいいから勉強をしたいと言う人間の浅はかさは、誰もが理解しているように思う。理想の体を手に入れたい。世界史を理解したい。海外に行きたい。そういった目的のための手段こそが習慣として最適であると、一般論的に言えるならば、私のような、なんかかっこいいから日記が書きたいという、目的でも手段でもない理由で習慣にしている人間が、変人に思われるのも仕方が無いのかもしれない。

 最近は日記を上手く書く為に読書をしている。読書と言う習慣が出来た。習慣は連鎖して、人格を形成する。習慣が、自己を成長させる最も有効で、唯一の手段である。これは理性的で直感的な真実である。

 

 珍しくお題を書こうと言う気が起こった。あとがきだが、最初に書いている。別にお題の習慣にしたいことというのにそこまでの興味はない。入力している時に表示されている右下の文字数が、私にとって一番興味をそそる事象である。

 経験上、お題を投稿すると必ず誰かしらの目に留まるが、基本ただの日記を書いているだけなので、大したブログではない。読者を楽しませることが出来ず、私も残念である。

 私の習慣が誰かのなにかの一助になるとは到底思っていない。なおさら、これを読んで頂けた縁そのものに感謝している。これから本題を書く。